2009年8月13日木曜日

「道」

"万物の根底には「道」がある" とは老子の言葉である。

「道(タオ)」とは万物を万物として成り立たせている大いなる存在、何ものにも依存しない、目には見えぬ「無」としか言いようのない存在。
そこには善も悪もない、是も非もない、強いて表現するならば無心、無欲、無為といった超越の真理。

老子はこう語っている。

「天地の初めよりまえに、ある混沌としたものが存在した。それは音もなく形もなく、他の何ものにも依存しない存在である。これこそ天地の母に他ならない。その名前さえ知らないので、仮に”道”と呼んでおこう。強いて名づければ”大いなる者”と言ってもよいかもしれない。」


このような大きな存在でありながら「道」はいささかも主張することなく、誇ることも、思い上がることもなく、静かに息づいている。

これを体得することは、すなわち厳しい現実を自由にしなやかに品位を持って生き抜くことを意味している。


こんな生き方を心がけたい。



2009年8月11日火曜日

「契機」を考える

「情熱」と「能力」のつづき。

「契機」は英語で opportunity または chance だが、日本語でもきっかけ、好機、偶然、タイミングなどのニュアンスがある。

それはあたかも自分ではコントロールできない天からやってくる代物のように感じる。

しかし実はこれは偶然の産物ではない。自ら求め、あるいは与えうるものなのだ。

どういうことかというと、私事の話をしよう。

私は30歳を迎える少し前に生涯を独身で貫こうと心に決めたことがある。それは本当のパートナーをこの世から見つけることが絶対に不可能だと考えていたからだ。よく言えば理想が高く、悪く言えば結婚に悲観的だった。むしろひとり気ままに生きていくことのほうが充実した人生を手にすることができる。そう考えていた。

しかし、結果的にその考えはひとりの女性と出会うことで、もろくも崩れ去った。瞬く間に恋に落ちたとはこういうことである。もちろん、結婚が成就するためにあらゆる手を打ったことは言うまでもない。

出会った瞬間から人生が変わったわけである。

この契機はなんだったのか。単なる偶然ではない。人生のうちの限られた出会いのなかで、最大限にその出来事を受け入れ、行動、決定する意思、そして選択の自由が私のほうにあったのである。

つまりきっかけを生かすも殺すも本人しだいなのである。

それは生きている限り、場所が変わり時間が経過する限り、無数に存在しているのである。

それを掴むのは自らの視点と行動でしかない。

こう考えると今置かれている状況、立場はすべて自ら選択したものだと分かる。

そしてこれから起きる未来も自らの意志なのである。偶然はない。


成功の条件は「情熱」と「能力」と自ら選択し行動し最大限に生かすことのできる「契機」である。



2009年8月5日水曜日

コーディングし続けるその先に

聴覚を失った偉大なる音楽家ベートーヴェンにこんな逸話がある。

彼は膨大な数の楽譜の断片を遺したそうだ。しかし作曲するときにそれらの楽譜を見ることはなかった。

ではなぜ楽譜を書くのかと聞かれてこう答えたという。書かなければ忘れる、しかし一度書けば一生忘れない。

これは書くという行為の学習性を示している。

思考を脳から取り出すことが記憶として浸透させるきっかけになる。



我々の世界で言えばソースコードは、書くだけでなく設計をしてコーディングして動かして検証するまでの一連の作業を通して出来上がる。これを共同作業で。

これは書く以上に幾重もの開発作業を重ね、言わば脳からうやうやしく取り出される。当然、記憶にはいやでも焼きつく。

そういう意味で一度書いたソースコードはそのときの多忙な出来事と共に記憶され、いずれ「あ、昔なんかこんな感じのコードを書いたっけ。。あのときは大変だったなあ。」とかなんとか言って、昔のソースコードを探し出すのである。

そう考えるとコーディングし続けたその先に、いずれ集大成である「作品」が待っている。