2009年7月20日月曜日

「情熱」と「能力」

成功の条件は「情熱」と「能力」と「契機」である。これは記憶によればピーター・ドラッカーの言葉だ。しかしいつのまにか体が覚えている。

僕が最初にソフトウェアの世界に入ったのは1994年。それから15年。取り巻く技術キーワードとスタイルは多様化している。しかしその本質はなにも変わっていない。効果的な仕事の進め方、設計の重要性、コーディングがソフトウェアの品質を左右する理由、テストとバグの関係、リリース手順の明確化などなど、どれも実務的なものの考え方は同じである。ピーター・ドラッカー流に言えばこれらの職業観が変わるときに産業構造が大きな転換を迎えることになるのかもしれない。

僕が最初に触れたコンピュータ言語はCだった。Cの文法を学び、構造体を学び、ポインタを学んだ。それらのひとつひとつの技術要素は、コンピュータを知る上での玄関口だった。柔道に例えれば技(わざ)の習得である。形から乱取、実戦と進むことが、コンピュータの世界ではアルゴリズムなどの基本を知ることであり、データベースやネットワークなどの応用を使い倒すことであり、最終的にはシステムを開発する能力を身に付けることである。

これらの学びの道は仕事を通してさらに磨かれプロフェッショナルになっていく。そこには意欲的に打ち込む動機付けが存在する。好きとか楽しいとか知りたいとか人間的な基本欲求である。これが基盤となってやりがいを感じて「情熱」を持ち仕事に没頭する。

僕が働き出した最初の6年間は、この情熱の塊だったというつもりはない。つらいことの方が多かった。同期に先を越され、お客さんに詰め寄られ、上司に叱られ、残業続きで金よりも時間がほしいと思ったものだ。しかしこれらの苦い経験が厳しさと責任と根性を教えてくれた。自分はこの仕事に合っているのか、と何度、自問したことか。

しかしそれでもコンピュータの世界は知的好奇心をくすぐる宝庫だ。作ろうと思えば何でもできるこの世界が好きなのだ。アイデアしだいで何でもできる。それがインターネットにつながり無限とも言える広がりを持つことの魅力がたまらない。

こんな世界に浸かっていると知らず知らずに「能力」が身に付き、信頼を知り、仲間ができる。
それは時間をかけて「情熱」を傾けることで「能力」が開花するという意味である。

このようにして「情熱」と「能力」は手に入れた。もちろんこれらにゴールはない。さらに上に行く。

そして最近「契機」を考える。きっかけ、チャンス、偶然、タイミング。契機とはなんなのか。

(つづく)



2009年7月11日土曜日

ピンで生きる

ピンとはポルトガル語のpinta(点の意味)を語源とする「ひとり」という意味である。
ピン芸人と言えば想像は容易いだろう。

僕の根底にはいつも「ピンで生きる」がある。なぜか。それは39年間、人間をやってきて知った揺ぎ無い現実であり、挑戦であり、原動力だからだ。けっして、ひとりで生きていくという意味ではない。

自らの心得として改めて考えようと思う。

まず、利害関係の本質は助け合いではない。利害関係とは平たく言えば損得勘定である。需要と供給が合致する等価交換である。
それはビジネスであり、経済であり、生活である。

知るべきことは、自分がいったい何で生計を立てているかである。

これは人類が誕生したときから必ずや繰り返されている人間学だ。

たとえば、自分が失敗したときに周りの人間にどこまで甘えが許されるかを考えれば明白だと思う。その甘えは期限付きなのだ。その期限の長さはお互いの信頼関係の深さで決まる。
困ったときに助けてもらうことは「信頼」を引き出す行為であり、上手くいっているときは無条件で「信頼」を貯めていくことが大切なのである。

子供にはできないことだ。

「ピンで生きる」とは、ひとりひとりがこの他者との信頼関係の深さを意識して生きていくということである。

信頼はあるときはマナー、あるときは相談、あるときは約束、あるときは情熱、あるときは能力、あるときは品質、あるときはお金、さまざまな様相に取って代わる。

そこに重要なものはタフでシビアでオリジナリティのある生き様だ。つまり、へこたれず厳しさを持ち合わせた誰にも真似のできない自分らしさ。そこに妥協や諦め、甘えや依存、羞恥や恐れ、不平や打算はない。偽りのない行動があるのみだ。

そしてなによりも「信頼」を貸し借りではなく無償の愛として尽きることのないものとすることが大切だ。



この「ピンで生きる」行動があってはじめて「組織」の個が光り輝くのだと信じて止まない。




2009年7月6日月曜日

中学2年生に教えられたこと

休日は娘と近所の児童館で過ごすことが多い。
図書館に併設された区の施設で子供たちの遊び場の少なくなった都会の安全地帯なのだろう。小中学生がみんな自由奔放に遊んでいる。

娘とシンデレラのパズルで遊んでいると、少年が近づいてきて「囲碁やろうよ」と誘ってきた。お、珍しいな、と思った矢先、囲碁はやったことがない。。

少年が五目は?と言って碁石と碁盤を用意している。おもしろい子だな、と思って快諾すると早速打ってきた。売られた勝負は買わなければと、娘を横目に「よし」と打ち出す。
30年ぶりに五目並べをやった。少年がさくさく打ってくるもんだから、頭の回転が追いつかず1戦目は取られた。

「小学生?」と聞くと「中2」と。いまどきの中学生が囲碁か。。実は今年に入って囲碁がやりたいと思っていた。でも時間と相手がいない。。


五目でもいいやと受けて立ったが、これが結構面白い。相手の打つ位置を見て連なる石の方向から相手の動きを読んで並びを妨げる。そして、気が付かれないように仕掛ける。
結構熱くなった。2戦目に僕が勝ち少年も熱くなったようだ。少年が「俺と互角だな」と。ふふふ、伊達に大人はやってないよ。

何戦か交えるうちに、相手の手の内が読めてきた。少年は打つ石を好き放題に広げる。広げて並びそうな交点を拡散する。よく見ていないと忘れてしまう。
しかし忘れる頻度は少年も同じだった。碁盤の中の石はお互いにすべてを包み隠さず見せているわけだが、自分の手を進めていくうちに相手の行動が記憶から遠のいてしまうのだ。
重要なのは相手の動きと並びそうな線の組み合わせを読み、伸びる並びを阻止して、自分の手を仕込むこと。おもしろい。

後で調べたらできるだけ外に広がるように打つのはセオリーらしい。そして自由に好き勝手打てる先手のほうが有利なのだそうだ。少年が先手を取った回数が多いじゃないかと思い出したのは負けず嫌いの証拠かな。

ちなみに2つの石の並びからひとつ飛び越えて3つを並べた状態を「飛び三」(とびさん)という。

先を読み「飛び三」を交えて並びの可能性を広げていく攻めと相手の動きを予測して並ばせない守り、まさに相手に見えないものを先に見るというところは経営戦略と同じじゃないかと気付かされた。
そして、何よりも物事を大局的に捉える大切さ、「木を見て森を見ず」の状態が負け(失敗)の要因になることを実感した。盤を「よく見る」とはこういうことなのか。

ほんの小一時間だったけど新鮮だった。


ウィキペディアで調べると囲碁とかオセロ、連珠(五目並べ)はアブストラクトゲーム (Abstract Games) というらしい。説明はウィキペディアより引用すると、

広義には、名前通り抽象的(アブストラクト)で、元となった現実の出来事など(テーマ)とゲームの内容とが余り関係のないものになっているゲーム、あるいは具体的なテーマが全く存在しないゲームを指す。ただし、トランプゲームやカードゲームは含まれない。
狭義には、上に加えて
  • 偶然が関与しない
  • ゲーム内の全ての情報が公開されている
  • ルールが明解で解釈の余地はない
といった条件を満たすものを指す。


何がいいって、このAbstractという響きがいい。(Javaをやっている人には分かるよね)