2009年12月4日金曜日

始まりの終わり

いままで1年半、出会いを求めてこのブログを書いてきました。

私の出会いとは、自分の中の未知なる可能性との出会い、視点を変えた気づきとの出会い、自分のいい所、悪い所を教えてくれる出会い、成功へのチャンスとの出会い。

このブログに書き出すことで多くのことを知ることができました。

しかし、本当の意味で知ったこと、それは、

求めていたもの、すなわち、仲間、家族、友人、お客さん、近所の方々、今まで接した多くのお世話になった人たちとのワクワクするような可能性と情熱に満ちた未来。すべての種は、このブログを書く前からもうすでにそこにあったことに気が付きました。芽を出し葉を広げ実をつけるその日まで、山あり谷ありがんばって生きていきます。




当ブログで、つたない文章でしたが、今まで読んで頂いた方々には大変嬉しく思います。ありがとうございました。

またどこかで書き始めたいと思います。では、その日まで。









2009年11月24日火曜日

レッツ・トライ

リラックスした状態で想像の時空を漂流する。そのなかで起きる出来事、きっかけ、事件、展開を体で感じる。考えるのではなく感じること。それを言葉にし、絵に描き、流れるイメージを脳からうやうやしく取り出す。きっと、それは禅や瞑想をクリエイティブな空想行為とむすびつけるもの。
大切なのは無理なく自然に肉体と精神の分離を試みる。そして無限に広がる可能性の頂から未来へのメッセージを拾い上げる。

留意点は次のとおり。
  • 目を閉じ、耳をすませ、ゆっくり息を吸い込み、風を感じて、大脳の導きに従う。
  • 五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を研ぎ澄まして「感じる」。
  • とにかく楽しむ。ふぜけることも効果的。
  • これは記憶を思い出す行為ではない。どんな小さなイメージでも映像として捉える。
  • 見えたイメージに対しての判断は不要。そのまま取り出すことを意識する。
  • 大事なのはフィーリングである。
  • イメージの姿、形、色、音、におい、味、肌触り、感触などを声に出して説明する。(現在形進行形で話すことが大事)
  • 説明は理屈抜きの感覚的、抽象的なものでよい。
  • イメージをキャッチするときに盲目的な感覚ではなく懐疑的ではあるが好奇心大盛なポジティブシンキングの姿勢を保つ。
  • 語られたイメージを絵にしていく。

取り出された絵を言語化して、あらゆる切り口から解釈する。

アインシュタインの言葉です。
「私の科学的な能力は直感から来る“サイン”や“イメージ”、視覚、聴覚、触覚などさまざまな感覚による“とらえどころのない遊び”により生まれたものです。あの相対性理論もこういった多くの要素を頭の中で組み合わせているうちにひらめいたのです。ですから私はこの“組み合わせ遊び”は創造的作業には欠かせないとても重要なことだと思っています。」(「頭脳の果て」から引用)


ひとりで行うときはICレコーダーがあるとGood!

Let's try!!


2009年11月11日水曜日

イメージ・ストリーミング

左脳は冷静、分析、論理、言語、理性、理屈、抑止、検査など客観性を重んじる働きがある。一度に限られた範囲しか認識できない。文章を読むときは文字を言葉にして一字一句読んで理解することを思い出せば左脳の働きは想像がつく。
一方、右脳は感情、直感、音楽、映像、創造、空想などのイメージを司り、独創的な洞察力を持ち、潜在意識や無意識の世界が広がっている。そして右脳は膨大な量の情報を一瞬にして処理する。

以上のような脳の基本的な働きを前提にイメージ・ストリーミングを考えてみる。

情報は多くの場合、関所である左脳によりまず処理される。そこでは左脳は言わば「判断のフィルター」になっている。「これはおかしい」や「こうあるべき」というジャッジにもとづいて情報はフィルタリングされる。多くの場合、このフィルタリングによって次の行動がパターン化されていく。取り込まれた情報は右脳に届き、無意識のなかで過去の記憶と混ざり合い、イメージがわき上がる。このイメージが流れることをストリーミングと言い、実は右脳の中では常にイメージが渦巻いている。それは寝ているときに夢という形で現れることもあるし、覚醒しているときにふっと白昼夢のような形で現れることもある。

この右脳の中のイメージの流れが、驚きを伴って識別できれば、今までにないアイデア、問題の斬新な解決方法などをひらめくことにつながる。

誰でも一度は寝ている夢のなかですばらしいアイデアを思いついた経験があるだろう。そんなときのイメージをそのままの状態で意識的にキャッチできれば大きな「気づき」につながるということだ。
ただ、多くの場合こうした「気づき」は左脳によるジャッジが厳しいため、そのサインに対する驚きは冷静さと共に半減し薄れる。「ああ、それはこういう理屈でおかしいんだよね」「現実には無理だよ」と思ってしまえば、「気づき」のサインは萎縮してしまう。イメージは否定や拒絶に弱いのである。

こういったことを前提に、もし左脳を介すことなく右脳に直接働きかけることで驚きを持った新鮮なイメージがそのままの姿でキャッチできれば。。これが「イメージ・ストリーミング」である。



2009年11月7日土曜日

イメージからアイデアを

教育心理学者であるウィン・ウェンガー氏が著書「頭脳の果て」の中で創造的問題解決法として紹介しているイメージ・ストリーミング。

今年のマイ・ベストにエントリーされる本である。

創造的問題解決とは、言葉のとおり問題を創造的に解決しようとするもので、頭のなかに浮かぶイメージを明らかにすることで、潜在的なアイデアを掘り起こし、なかなか解決しない問題に新しい切り口で対処しようと試みる手法だ。

我々の周りに横たわるなかなか解決しない問題には例えば次のようなものがある。

  • 今後3年のうちに売上高を倍増するためにはどんな戦略があるか?
  • 新しい製品・サービスをどういうコンセプトで打ち出していけば成功するか?
  • 我々の存在意義はなんであり、どのような使命があるのか?
  • 社員の生活を豊かにするための具体的な方針は何か?


挙げていけばきりがない上記のような問題は、今日明日で解決しなければならないほど緊急ではない。しかし非常に重要であり、棚上げにしてしまってはいつまでも解決しない厄介な問題といえる。
このような問題を解決しようと日々いくら熟考しても、一向に解決策を見出すことはできない。いったいどうしたらよいのか?分らないので、とりあえずそのままにしておくことしかできない。それ以上に、日々はやるべきことがいっぱいで、いつも緊急で重要な問題を片付けていくことに集中せざるおえない。

こんな状況を打開し、人生をよりよいものにするためにイメージ・ストリーミングを知った。これは言わば人間の可能性を信じた手法である。五感を研ぎ澄まし、想像力を働かせ、イメージを捉えて、表現していくことで、今までの視点を変えた新しいアイデアを発掘し問題を解決していく。

現代では科学的根拠が欠けているものに対して懐疑的にならざるおえない社会通念がある。事実このような手法は、眉唾であったり、怪しげで嘘っぽいと判断されやすい。目に見えないものは信じられないというわけだ。客観性や数学的立証ができないものは価値がないのである。

しかし、人間の脳の中のすべての働きを誰が理解していようか。思考の行き着く先を誰が完全に把握していようか。大切なのは理論より実践なのである。そんな気にさせる本だった。



2009年10月28日水曜日

子を持って思うこと

昨日無事、元気な男の子を授かった。

まさに人間の原点に立ち会えたことに感動した。

よく子供は宝と言うが、大人もみんな最初は子供だった。当たり前だけど、社会は人間が作っているし、有史以来人間はより豊かな社会を夢見て歴史を作っている。

10年前には自分が二児の父になるとは想像もできなかった。人生とはなんと不思議なことか。
1999年は自分自身の内なる世界観を懸命に構築していた。

しかし今、確実に言える。自身の世界観はその外側から覗かなければ、バランスのよい穏やかで強く大きなものには成りえないと。

子供のため、教育のため、社会のため、国のため、未来のため、いったい自分は何のために存在しているのか。そんなことを考えさせられる出来事だった。これは考えなければいけないことだと思う。答えは必ずある。それは数学の漸化式のようなもの。

希望と可能性に満ちあふれた未来に向けてこれからもチャレンジしていきたい。




2009年10月8日木曜日

仕事と仲間

私事であるが、来週妻が出産する。男には母子共に無事を願うことしかできない。歯がゆいが、太古の昔から決まっている。

さらに産まれる日取りは誰にもコントロールできない。なので仕事が忙しいなかでこうした事態に立ち向かうには仲間が鍵になる。

今日、みんなに申し出た。「もしかしたら来週休みをもらったり、途中で抜けたりすることがあるかもしれないけど、どうかみんなの力を貸してほしい」と。

快諾とはまさにこのことだと感じた。みんな喜んでくれた。最高に嬉しかった。

人生とはひとりで成り立つものではない。感謝と謙虚な気持ちを忘れずに生きたい。

ありがとう。この恩は忘れない。


2009年9月23日水曜日

ゆるやかな人間関係

ウィークタイズ(weak ties)という言葉がある。社会学者マーク・グラノヴェッター氏による1973年の「弱い紐帯の強み」"The strength of weak ties"という仮説から来ている。

簡単に言えば、たまにしか会わない知り合いだ。例えば同郷の旧友、同じ大学の友人、前職の先輩や同期、子供の友達のお父さん、などなど。
頻繁に交流していた時期もあったが、今は何かの機会に会う程度、しかし再会すると非常に刺激を受ける。

こういう人たちとは日常の依存度が低い割に、すでに信頼関係ができており、たまに会って話すと、思いもよらず情報交換ができる。若いときにはなかなか受け入れられなかった関係も、歳と共にかけがえのないものだと思うようになった。

人的ネットワークでこうした「ゆるやかな人間関係」から得たものは、より密な人間関係よりも有益である。

それはいつも会っている人間関係からは得られない意外性、異質性、見解の相違、新鮮味、思いもよらない観点、などの「ズレ」がいい意味で重要な視点に気づかせてくれるのだろう。自分自身をいつもよりずっと客観的に見せてくれるのだ。

つまり、人間はひとりでいると、あるいは閉塞的な関係に陥っていると、いいアイデアも出ないということである。これは僕の好きなパラダイム・シフトへの入り口のひとつだ。


パラダイム・シフト : 発想の転換。固定観念の破棄。今までの古い見方から新しい見方に変わること。



2009年9月16日水曜日

ビジョンの意味が分った

今というこの瞬間の行動がもたらす結果はすべて自分にめぐってくることを書いた3年後の世界。

これは日々のすべての振る舞いが未来を作っているという意味である。

例えば、人とぶつかったときに感情に任せて反応するのではなく、ぐっとこらえて、その人との将来の関係を想像して、どうなりたいか、どうあるべきかに焦点を当てて今の行動を選ぶということである。

それはメールを書くとき、提案を持ちかけられたとき、大切なことを教えるとき、言動、姿勢、表情、態度、物腰、歩き方までも、今日着る服を選ぶのと同じように、ひとつひとつの行動や反応を選択するのである。
それはすべて3年後につながっている。

逆の言い方をすれば、成るようにしか成らないという刹那的な発想は捨てる。

3年後に照準を合わせて今を生きるのである。

そしてこの3年という月日はいつまでも縮まることはない。時間の経過と共に照準も移り変わるのである。


この考え方の利点は、成果はすぐに出さなければならないとか、問題は瞬時の判断で回避しなければならないとか、すぐに答えを出し、すぐに対処する、などなど、判断の早さが重視されがちな視点から逃れることができる。
すべては将来の姿を想像するという視点が重要なのである。これがビジョンである。

こう考えると心にゆとりが出てくる。日々急いだり焦ったりする必要はどこにもない。物事の真意をゆっくり考えればいいのだ。そして時間をかけて対処すればよい。ときには待ってもいい。時間はゆっくり流れているのだから。




2009年9月8日火曜日

3年後の世界

現実は厳しい。
思うように進まない仕事。容赦のない要求。責任という名の圧力。あっという間に過ぎ去る時間。期待を裏切る人間関係。
これだけ頑張っているんだから、分って欲しい、得るものがほしい、と無意識に見返りを求めている。
いっそのこと全てに背を向けたほうがどれだけ楽なことか。

と、最近、特に心で嘆いていた。。

しかし!ついに発見した。自分の原則を。
物事は見方ひとつでいかようにも変わる。

『3年後の世界を想像しながら、今この瞬間に課せられたあらゆる物事を判断し思考し行動する』ということである。

つまり、今起きている日常の選択のひとつひとつ、喜怒哀楽、仕事上の問題や、友人、家族との関係、感情のゆらぎ、これらすべてに対する自分の認識の行き着く結果は、3年後の自分に降り注ぐことになるということだ。それを想像し、どうなりたいか、どうあるべきかを基準に今の行動を選んでいく。

3年後の世界は今作られている。3年後に成果に結びつくのか、失うことになるのか、それは今の判断と思考と行動のひとつひとつにかかっている。未来はコントロールできるのだ。
少なくとも後悔や不本意な失敗はなくなるだろう。未来に対しても責任を自覚するのだから。人の言葉に踊らされたり、物やお金に依存したり、自己嫌悪に陥る確率も減る。そして逆に本当の意味での心の自由と人生の有意義さを獲得できるだろう。

これに気が付いた。




2009年8月13日木曜日

「道」

"万物の根底には「道」がある" とは老子の言葉である。

「道(タオ)」とは万物を万物として成り立たせている大いなる存在、何ものにも依存しない、目には見えぬ「無」としか言いようのない存在。
そこには善も悪もない、是も非もない、強いて表現するならば無心、無欲、無為といった超越の真理。

老子はこう語っている。

「天地の初めよりまえに、ある混沌としたものが存在した。それは音もなく形もなく、他の何ものにも依存しない存在である。これこそ天地の母に他ならない。その名前さえ知らないので、仮に”道”と呼んでおこう。強いて名づければ”大いなる者”と言ってもよいかもしれない。」


このような大きな存在でありながら「道」はいささかも主張することなく、誇ることも、思い上がることもなく、静かに息づいている。

これを体得することは、すなわち厳しい現実を自由にしなやかに品位を持って生き抜くことを意味している。


こんな生き方を心がけたい。



2009年8月11日火曜日

「契機」を考える

「情熱」と「能力」のつづき。

「契機」は英語で opportunity または chance だが、日本語でもきっかけ、好機、偶然、タイミングなどのニュアンスがある。

それはあたかも自分ではコントロールできない天からやってくる代物のように感じる。

しかし実はこれは偶然の産物ではない。自ら求め、あるいは与えうるものなのだ。

どういうことかというと、私事の話をしよう。

私は30歳を迎える少し前に生涯を独身で貫こうと心に決めたことがある。それは本当のパートナーをこの世から見つけることが絶対に不可能だと考えていたからだ。よく言えば理想が高く、悪く言えば結婚に悲観的だった。むしろひとり気ままに生きていくことのほうが充実した人生を手にすることができる。そう考えていた。

しかし、結果的にその考えはひとりの女性と出会うことで、もろくも崩れ去った。瞬く間に恋に落ちたとはこういうことである。もちろん、結婚が成就するためにあらゆる手を打ったことは言うまでもない。

出会った瞬間から人生が変わったわけである。

この契機はなんだったのか。単なる偶然ではない。人生のうちの限られた出会いのなかで、最大限にその出来事を受け入れ、行動、決定する意思、そして選択の自由が私のほうにあったのである。

つまりきっかけを生かすも殺すも本人しだいなのである。

それは生きている限り、場所が変わり時間が経過する限り、無数に存在しているのである。

それを掴むのは自らの視点と行動でしかない。

こう考えると今置かれている状況、立場はすべて自ら選択したものだと分かる。

そしてこれから起きる未来も自らの意志なのである。偶然はない。


成功の条件は「情熱」と「能力」と自ら選択し行動し最大限に生かすことのできる「契機」である。



2009年8月5日水曜日

コーディングし続けるその先に

聴覚を失った偉大なる音楽家ベートーヴェンにこんな逸話がある。

彼は膨大な数の楽譜の断片を遺したそうだ。しかし作曲するときにそれらの楽譜を見ることはなかった。

ではなぜ楽譜を書くのかと聞かれてこう答えたという。書かなければ忘れる、しかし一度書けば一生忘れない。

これは書くという行為の学習性を示している。

思考を脳から取り出すことが記憶として浸透させるきっかけになる。



我々の世界で言えばソースコードは、書くだけでなく設計をしてコーディングして動かして検証するまでの一連の作業を通して出来上がる。これを共同作業で。

これは書く以上に幾重もの開発作業を重ね、言わば脳からうやうやしく取り出される。当然、記憶にはいやでも焼きつく。

そういう意味で一度書いたソースコードはそのときの多忙な出来事と共に記憶され、いずれ「あ、昔なんかこんな感じのコードを書いたっけ。。あのときは大変だったなあ。」とかなんとか言って、昔のソースコードを探し出すのである。

そう考えるとコーディングし続けたその先に、いずれ集大成である「作品」が待っている。




2009年7月20日月曜日

「情熱」と「能力」

成功の条件は「情熱」と「能力」と「契機」である。これは記憶によればピーター・ドラッカーの言葉だ。しかしいつのまにか体が覚えている。

僕が最初にソフトウェアの世界に入ったのは1994年。それから15年。取り巻く技術キーワードとスタイルは多様化している。しかしその本質はなにも変わっていない。効果的な仕事の進め方、設計の重要性、コーディングがソフトウェアの品質を左右する理由、テストとバグの関係、リリース手順の明確化などなど、どれも実務的なものの考え方は同じである。ピーター・ドラッカー流に言えばこれらの職業観が変わるときに産業構造が大きな転換を迎えることになるのかもしれない。

僕が最初に触れたコンピュータ言語はCだった。Cの文法を学び、構造体を学び、ポインタを学んだ。それらのひとつひとつの技術要素は、コンピュータを知る上での玄関口だった。柔道に例えれば技(わざ)の習得である。形から乱取、実戦と進むことが、コンピュータの世界ではアルゴリズムなどの基本を知ることであり、データベースやネットワークなどの応用を使い倒すことであり、最終的にはシステムを開発する能力を身に付けることである。

これらの学びの道は仕事を通してさらに磨かれプロフェッショナルになっていく。そこには意欲的に打ち込む動機付けが存在する。好きとか楽しいとか知りたいとか人間的な基本欲求である。これが基盤となってやりがいを感じて「情熱」を持ち仕事に没頭する。

僕が働き出した最初の6年間は、この情熱の塊だったというつもりはない。つらいことの方が多かった。同期に先を越され、お客さんに詰め寄られ、上司に叱られ、残業続きで金よりも時間がほしいと思ったものだ。しかしこれらの苦い経験が厳しさと責任と根性を教えてくれた。自分はこの仕事に合っているのか、と何度、自問したことか。

しかしそれでもコンピュータの世界は知的好奇心をくすぐる宝庫だ。作ろうと思えば何でもできるこの世界が好きなのだ。アイデアしだいで何でもできる。それがインターネットにつながり無限とも言える広がりを持つことの魅力がたまらない。

こんな世界に浸かっていると知らず知らずに「能力」が身に付き、信頼を知り、仲間ができる。
それは時間をかけて「情熱」を傾けることで「能力」が開花するという意味である。

このようにして「情熱」と「能力」は手に入れた。もちろんこれらにゴールはない。さらに上に行く。

そして最近「契機」を考える。きっかけ、チャンス、偶然、タイミング。契機とはなんなのか。

(つづく)



2009年7月11日土曜日

ピンで生きる

ピンとはポルトガル語のpinta(点の意味)を語源とする「ひとり」という意味である。
ピン芸人と言えば想像は容易いだろう。

僕の根底にはいつも「ピンで生きる」がある。なぜか。それは39年間、人間をやってきて知った揺ぎ無い現実であり、挑戦であり、原動力だからだ。けっして、ひとりで生きていくという意味ではない。

自らの心得として改めて考えようと思う。

まず、利害関係の本質は助け合いではない。利害関係とは平たく言えば損得勘定である。需要と供給が合致する等価交換である。
それはビジネスであり、経済であり、生活である。

知るべきことは、自分がいったい何で生計を立てているかである。

これは人類が誕生したときから必ずや繰り返されている人間学だ。

たとえば、自分が失敗したときに周りの人間にどこまで甘えが許されるかを考えれば明白だと思う。その甘えは期限付きなのだ。その期限の長さはお互いの信頼関係の深さで決まる。
困ったときに助けてもらうことは「信頼」を引き出す行為であり、上手くいっているときは無条件で「信頼」を貯めていくことが大切なのである。

子供にはできないことだ。

「ピンで生きる」とは、ひとりひとりがこの他者との信頼関係の深さを意識して生きていくということである。

信頼はあるときはマナー、あるときは相談、あるときは約束、あるときは情熱、あるときは能力、あるときは品質、あるときはお金、さまざまな様相に取って代わる。

そこに重要なものはタフでシビアでオリジナリティのある生き様だ。つまり、へこたれず厳しさを持ち合わせた誰にも真似のできない自分らしさ。そこに妥協や諦め、甘えや依存、羞恥や恐れ、不平や打算はない。偽りのない行動があるのみだ。

そしてなによりも「信頼」を貸し借りではなく無償の愛として尽きることのないものとすることが大切だ。



この「ピンで生きる」行動があってはじめて「組織」の個が光り輝くのだと信じて止まない。




2009年7月6日月曜日

中学2年生に教えられたこと

休日は娘と近所の児童館で過ごすことが多い。
図書館に併設された区の施設で子供たちの遊び場の少なくなった都会の安全地帯なのだろう。小中学生がみんな自由奔放に遊んでいる。

娘とシンデレラのパズルで遊んでいると、少年が近づいてきて「囲碁やろうよ」と誘ってきた。お、珍しいな、と思った矢先、囲碁はやったことがない。。

少年が五目は?と言って碁石と碁盤を用意している。おもしろい子だな、と思って快諾すると早速打ってきた。売られた勝負は買わなければと、娘を横目に「よし」と打ち出す。
30年ぶりに五目並べをやった。少年がさくさく打ってくるもんだから、頭の回転が追いつかず1戦目は取られた。

「小学生?」と聞くと「中2」と。いまどきの中学生が囲碁か。。実は今年に入って囲碁がやりたいと思っていた。でも時間と相手がいない。。


五目でもいいやと受けて立ったが、これが結構面白い。相手の打つ位置を見て連なる石の方向から相手の動きを読んで並びを妨げる。そして、気が付かれないように仕掛ける。
結構熱くなった。2戦目に僕が勝ち少年も熱くなったようだ。少年が「俺と互角だな」と。ふふふ、伊達に大人はやってないよ。

何戦か交えるうちに、相手の手の内が読めてきた。少年は打つ石を好き放題に広げる。広げて並びそうな交点を拡散する。よく見ていないと忘れてしまう。
しかし忘れる頻度は少年も同じだった。碁盤の中の石はお互いにすべてを包み隠さず見せているわけだが、自分の手を進めていくうちに相手の行動が記憶から遠のいてしまうのだ。
重要なのは相手の動きと並びそうな線の組み合わせを読み、伸びる並びを阻止して、自分の手を仕込むこと。おもしろい。

後で調べたらできるだけ外に広がるように打つのはセオリーらしい。そして自由に好き勝手打てる先手のほうが有利なのだそうだ。少年が先手を取った回数が多いじゃないかと思い出したのは負けず嫌いの証拠かな。

ちなみに2つの石の並びからひとつ飛び越えて3つを並べた状態を「飛び三」(とびさん)という。

先を読み「飛び三」を交えて並びの可能性を広げていく攻めと相手の動きを予測して並ばせない守り、まさに相手に見えないものを先に見るというところは経営戦略と同じじゃないかと気付かされた。
そして、何よりも物事を大局的に捉える大切さ、「木を見て森を見ず」の状態が負け(失敗)の要因になることを実感した。盤を「よく見る」とはこういうことなのか。

ほんの小一時間だったけど新鮮だった。


ウィキペディアで調べると囲碁とかオセロ、連珠(五目並べ)はアブストラクトゲーム (Abstract Games) というらしい。説明はウィキペディアより引用すると、

広義には、名前通り抽象的(アブストラクト)で、元となった現実の出来事など(テーマ)とゲームの内容とが余り関係のないものになっているゲーム、あるいは具体的なテーマが全く存在しないゲームを指す。ただし、トランプゲームやカードゲームは含まれない。
狭義には、上に加えて
  • 偶然が関与しない
  • ゲーム内の全ての情報が公開されている
  • ルールが明解で解釈の余地はない
といった条件を満たすものを指す。


何がいいって、このAbstractという響きがいい。(Javaをやっている人には分かるよね)



2009年6月30日火曜日

ゴールはいつも始まり

うちのメンバが今年の春に行われた応用情報技術者試験に合格しました。

おめでとう!

これは本当に喜ばしいことです。この道を進む者としてなにより誇りになると自信を持って断言できます。

これは誰のおかげでもなくあなた自身が勝ち取った未来です。



こんな話があります。空手だか柔道だかで師匠に認められて黒帯を手にするときに、師匠が弟子に黒帯の意味を問いました。


師匠は言いました。「この黒帯を受け取る前にそなたの心境を聞かせてほしい」

弟子「いま最高の気持ちです。黒帯は言わば大いなる山を登りつめた証です」

すると師匠は「まだ黒帯を渡すわけにはいかない」と言い、弟子はさらに一年修行を積んだそうです。

翌年、さらに力を付けた弟子を前にして師匠が「今年こそ黒帯を渡そう。今の心境を聞かせてほしい」

すると、弟子は「黒帯は達成の象徴です。いま充実感でいっぱいです」と答えました。

師匠は再び「まだ黒帯を渡すわけにはいかない」と言い、弟子はまたさらに一年修行を積んだそうです。

翌年、さらに大きな力を付けた弟子を前にして師匠が「黒帯を渡そう。今の心境を聞かせてほしい」

すると、弟子は「まだこの道を究めてはおりません。まだまだやることがあります」と言いました。

師匠は「よくぞ悟った。ここから始まるのじゃ」と言って黒帯を渡したそうです。


ポイントは過去より現在、現在より未来を、ということです。

ゴールはいつも始まりなのです。




2009年6月27日土曜日

1Q84

実は僕は、世界中で村上春樹の書く小説がもっとも好きです。20年前に「風の歌を聴け」を読んで以来、彼のすべての作品(エッセイも含めて)は読み倒しています。
なにが嬉しいって、彼と同じ時代を生きている喜びです。生きている限り彼の新作が読めるのです。

5年ぐらいの周期で繰り返し繰り返し「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」「ダンス・ダンス・ダンス」「羊をめぐる冒険」「ねじまき鳥クロニクル」を読んでいます。思い立つと読み返したくなるのです。不思議に。

当然、先月出版された「1Q84」もAmazonで予約購入し読みました。


今日、読み終えて率直な感想を言わせてもらえればこうです。

娘を持つ父として、なぜこの本が100万部も売れるのか理解に苦しみます。

が、メッセージは受け取りました。(これがファンのなせる業です)



人の価値観は人の数だけ存在します。それは善悪ではないということは周知の事実です。もし法がある人の価値観で成り立っていたとしたら世の中の根底が揺らぎ崩れます。それほど、人の価値観は危ういものなのです。心の闇、感情の起伏、本当の自分は自分にしか分からないと思っている自我、弱く、欲深く、やっかいなものです。

もし、そんな、あやふやな判断基準の上に生活があり、経済があり、人生があるとしたら。。  いえ、 あるのです。

やっかいな人間が作り出した家庭があり、組織があり、集団があり、社会があるのです。


ですが、村上春樹の言わんとしていることは、僕なりにこう解釈しました。

当事者の心のフィルターを通さない事実は、真実ではない、ということです。

仮に一般論としての悪を内在する人間が現実に一般論としての悪に走ったとしても、当本人の価値観にその悪を認めるところがなければ、どんなに裁いてもそこに意味はありません。

そして、ひょっとしたら、悪を決めるのは多数決なのかもしれません。


そんな、現代社会の危うさを感じました。



2009年6月24日水曜日

役割と責任と富の分配

「高みを望む高潔な組織を作り上げる」という大いなる目標の具体的な形を見つけました!
その会社の名は「株式会社21(トゥーワン)」。 

テレビ東京毎週月曜日22時「カンブリア宮殿」で紹介され、長い間うやむやにされてきた真実を初めて知ったときの少年のようにテレビに釘付けでした。

私の夢がすでにこういう形で実現されていることに驚いたと同時に、疑いの余地のない確かな目標としてロックオンされました。


株式会社21(トゥーワン)とは広島に本社を置くメガネ屋さんです。掲げるミッションステートメントは「社員の幸せ」。難しいことはああだこうだと考えない、ということです。

驚いたことに会社の利益はすべて社員の給与と価格値下げに注がれ、年商80億あまりあるにも関わらず経常利益が数万円というのです。
怪しい経営でマルサがはいったほど。社員のボーナスは500万円を超えることも。なぜこれほどまでに社員に還元しているのか、その経営哲学が面白い。

社長さん曰く「内部留保ほど馬鹿らしく会社を消沈させるものはない。利益は余すことなくお客さんと社員に還元すべし」(個人的解釈済み)

内部留保とは簡単に言えば、決算で生じた利益を蓄えることで、会社経営上現金が必要なときに充当する資金になります。

経営では、決算で利益が上がっても現金がなければ会社を維持することはできません。支払いに対して入金は遅れるものだからです。

この資金のやりくりを資金繰りと言います。

株式会社21(トゥーワン)のすごいところは、会社に資金を残すことなく全額を社員に還元し、現金が必要なときには社員から借りる仕組みができているところです。

会社は社員の力によって、維持、発展され、資金繰りさえも社員によって支えられているというのです。

銀行からも借りず、社長の年収も社員と同等にして、役割と責任と富の分配が完全な民主主義の形態で構築されているのです。
ただ、不況時は社員に耐えてもらうこともあります。無給で働くこともあるでしょう。ですがこれは、いいときも悪いときも、言わばリスクもリターンも平等ということです。

感動を覚えました。

社員は会社を本当の意味での人生の一部にしているということを実感したのです。社員という個人が頑張らないで誰が会社を成り立たせるというのでしょうか。お金という現代社会の価値の交換の意味を本当の意味で理解できました。


私はこのような「会社」と「個人」が現実の生活として一体となるような組織を作り上げたい。



2009年6月16日火曜日

偉大なるGmail

僕も含めてうちのメンバは全員Gmailのヘビーユーザです。

使っているというか、もうこれがないとメールが整理できないほど依存しています。ひとたびGmailがトラブルに見舞われると精神的に大きなダメージをこうむります。。

幸か不幸か、そんなGmailの受信トレイはキューイングされたTODOリストにしか見えません。

この受信トレイをすっきりさせることが=(イコール)仕事の進捗です。「アーカイブ」ボタンを押すときが至福の幸せ。

帰宅した深夜も通勤時間も休日も、PCでも携帯でも、いつもGmailです。ポイントはいかに受信トレイに溜めないかです。

夢は受信トレイにメールが1件もないこと。




2009年6月15日月曜日

鍵は「仲間」

さまざまなTODOがひっきりなしに持ち上がります。楽しむゆとりなどありません。追われるままに対処しても、やり過ごしても、一向に減っていきません。
自分の管理能力と処理能力を疑います。

しかしです。はたと気が付きました。

一般的に出来るSEとは、同時並行的に複数の案件をひとりでこなしていけるだけの能力を身に着けているはずだ、という固定観念があります。

スーパーSEという呼称があるのかどうか、複数の仕事を掛け持つことがある種の一流の条件であり、同時並行的にさばけない人はダメなSEという烙印がおされる怖さがあります。そこには的確な優先順位と時間配分と人への振り方、そんなマネジメントの能力が問われているからです。

しかしこれはボトルネックを誘発する前兆だと思うのです。作業を掛け持ちした人は、その人がどんなに優秀でもどんなに責任感が強くても、掛け持ちの量が多ければ多いほど優先順位に関係なく各々の作業は遅れていきます。

マルチタスクのタイムシェアリングと同じです。時間分割されても作業が多ければその完了は遅くなります。人へ振るにしても、前もって教育やドキュメントに時間をかけなければ、効果的に引き継がれるわけはありません。

こんなことを考えてそれでも頑張らねばと思った矢先、気が付いた最大のショックは「このボトルネックの症状が自分にある!」ということです。仕事が自分に集中し、あれもやらなきゃ、これもやらなきゃで全体が滞っているのです。悲しいことに。。

これはいけません。「貧乏暇なし」状態は成長の限界です。



改善の鍵は「仲間」です。助けてくれ!